2008年12月5日金曜日

念場ヶ原(清里高原)の歴史(ぱーと2)




念場ケ原とは八ヶ岳の赤岳山頂から弘法坂付近までの山麓一帯(現在の清里高原)を呼んでいたようです。

昭和13年4月には小河内ダムに水没する旧小河内村、丹波山村、小菅村の住民28戸62人が念場ケ原に入植して開墾が始りました。当時は小作農制度のため田畑が自分のものになる開拓入植は希望の光だったようです。

故郷では考えられない広大な土地が所有できる喜びも長くは続きませんでした。寒冷地のために作物はほとんど育たず水もなく冬の寒さは耐えがたい辛苦でした。

昭和の29年に酪農振興法が制定されイギリスのジャージー島原産のジャージー牛が導入され八ヶ岳山麓、長野県、鹿児島県の霧島高原などで酪農が始りました。この牛は寒冷地に適していたためと当時は牛乳が高価な飲み物でしたので入植者は経営が軌道に乗り人並み以上の生活ができるようになりました。

しかし、酪農もホルスタイン系の牛乳に押され次第に牛乳価格が安くなりました。その頃に「もう、戦後ではない」と日本経済が高度成長の軌道に乗り始め日本国有鉄道(国鉄)が始めた「ディスカバー・ジャパン」の掛け声とともに40年代中ごろには一大旅行ブームが到来したのです。

酪農をする傍らに新たに民宿を開業する入植者がたくさん現れました。昭和50年初期までこの流れが続きました。

50年の中ごろになると西洋民宿版のペンションが次々と建設され民宿は時代遅れとなり取り残され始めるのでした。(つづく)

0 件のコメント: