2008年12月4日木曜日

念場が原(清里高原)の歴史(ぱーと1)


現在は市町村合併により北杜市になり北巨摩郡の名称は使用されなくなりましたが「巨摩」の呼称は「駒」からの連想ではなく「高麗(こま)」つまり朝鮮半島を意味する呼称なのです。埼玉県の高麗川などにもその名が残っています。

富士川沿いには朝鮮半島から陶磁工などの技術者が渡来し住み着いたようです。清里高原にも野生馬の調教師などが渡来していたのかも知れません。

清里高原は平安時代に「念場千軒」と言われるくらい多くの人家があり賑わっていたようです。京都の朝廷の命で「柏の牧」(現在の清里の樫山集落と思われる)に御料牧場があり毎年30頭ほどの馬が京都まで献上されていたようです。(甲斐国史)

全国的には那須、秩父、木曾、山梨県では「御坂の黒駒」などから多くの名馬が京都に送られていたようです。約100年間の記述がありますがその後は記載が無くなります。

私の推測ですが祭礼用や軍用馬が必要だったため野生馬を調教させ多くの馬を集めたがその後は種牡馬が増えて京都周辺で飼育が可能になり役割を終えたものと思われます。

その後の変革は昭和10年11月に小海線が全線開通し物資の輸送が可能になり材木や炭や野菜などが消費地に輸送できるようになり少しづつ人家が増えてきたようです。

昭和8年ころ作家で登山家の尾崎喜八が清里高原を旅した紀行文があり現在の「箕輪」までバスで来て長沢~弘法坂~三軒屋~現在のユースホステル付近~野辺山と辿っています。「近いうちに小海線が全線開通するようだ。デパートの包み紙と多くの人々が押し掛けてくるだろう。私は静かなこの高原の思い出を大切にしたいので再び訪れることはないだろう。」と書いています。

ペンションなどを建設し清里高原に物見遊山な人々を多く呼び込んでしまった一人として尾崎喜八に申し訳ない気持ちです。(つづく)

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