

中国から伝来した道教に日本古来からある多神教の教えが混ざり合っているようにも思います。大きな岩、大木、深淵などなど人智が遠く及ばない現象に人々は畏敬の念を抱き神様にしたようです。
私が育った集落にも多くのお地蔵さんが祭られていました。悪戯坊主だった私は悪いことをした日の学校の帰り道にお地蔵さんの前を通る時はお地蔵さんが「コラー」と大きな声で叱るような気がしてかなり手前から脱兎の如く駆け抜けました。(陸上競技の長距離を始めた原点です)
勿論、次の日からは帽子を取り身を正してチョコンと頭を下げて通ります。
現在はあのお地蔵さんたちはどうしているのでしょうか。八ヶ岳山麓でも山奥や旧集落などの田畑の畔などに少しは残っているようです。
人智ではどうしようもない領域が存在した昔は神を崇め敬い救いを求めましたが科学が発達した現在ではそのような信仰は必要なくなってしまったようです。
ヒマラヤの4000mを超える山々を歩いていると自然環境の厳しい集落で生活をしている人々に会う機会が多いです。小さな集落にもチベット仏教のお寺がありお坊さんがいてチベット仏教を信じる人々が生活しています。
「生病老死」は自分たちではどうしようもない領域ですべて神の思し召しに従わざるを得ないと心しなければ生きられないという現実があるからでしょうか。
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